事例 売却済み

創業18年のフランス菓子店、廃業まで残り1〜2週間で約800万円承継——29歳の買い手が値引き交渉をしなかった理由

兵庫県の創業18年の手作りフランス菓子店が、廃業まで残り1〜2週間という状況からTRANBI経由で約800万円で事業譲渡された。買い手は29歳の個人事業主で、価格交渉は一度も行わなかった。

執筆: Small Start 編集部(公開情報の要約+独自分析)

創業18年のフランス菓子店、廃業まで残り1〜2週間で約800万円承継——29歳の買い手が値引き交渉をしなかった理由

小規模M&Aの記事では「いくら値引きできたか」が語られやすい。この事例の買い手は、値引き交渉を一度もしていない。しかもその判断には明確な計算の裏付けがある。

兵庫県で18年続いてきた手作りのフランス菓子店。売り手は親の介護で経営継続が難しくなり、店舗の賃貸契約にも期限が迫っていた。TRANBIに掲載されていた時点で「あと1〜2週間待って問い合わせが来なければ、設備をすべて売却して廃業する」という状態だったという。

そこへ手を挙げたのが、当時29歳の豊田拓弥氏である。譲渡額は約800万円、スキームは事業譲渡、原資は自己資金。引き継いで3か月後には、売上が前年同期を上回っている。

案件と取引の概要

項目内容
対象兵庫県の手作りフランス菓子店、創業18年
売り手の事情親の介護で経営継続が困難。店舗の賃貸契約の期限が迫る
期限あと1〜2週間で問い合わせが無ければ設備売却・廃業
譲渡額約800万円(事業譲渡)
資金自己資金(融資なし)
価格交渉なし
買い手29歳の個人事業主。経営コンサル会社で食品製造業を約3年担当した後に独立
承継後の人員既存のパティシエ1名を継続雇用、売り手紹介の**新店長(パティシエ)**を採用
売り手の関与再雇用アドバイザーとして半年〜1年の支援を継続
3か月後売上が前年同期比で上昇

800万円という金額をどう評価したか

豊田氏は「価格交渉はしていません」と明言している。理由は本人の業界知識に由来する。

彼の説明によれば、ゼロから菓子店を立ち上げて設備や機器を導入し、パティシエを新規に雇おうとすれば3,000万〜5,000万円の投資が要る。18年分の設備、レシピ、常連客、そして働けるパティシエが付いた状態で800万円なら、比較の土俵に乗らないほど安い。だから交渉する対象ではなかった、という判断だ。

この見立ては、小規模M&Aの価格を「利益の何倍か」だけで測ることの限界を突いている。営業中の店を買う値段は、同じものを自分で作った場合の費用と比べても評価できる。特に設備投資の重い業種では、後者の比較のほうが実態に近いことがある。

もう一つ、彼は値引きしなかった理由として「M&Aを経て終わりではなく、売り手とは今後も良い関係を築いていきたい」とも述べている。実際、売り手はその後アドバイザーとして半年から1年の技術継承に関わり、新しい店長も売り手の紹介で採用されている。800万円の内訳には、譲渡契約書に書かれない「引き継ぎ後の協力」が含まれていたと読める。屋号を変えないと申し出た相手を選んだ秋田のビジネス旅館ますだの承継と同様、小規模承継では価格以外の条件が取引の質を左右する。

準備が整う前に決めた

この取引で興味深いのは、買い手が「本当はもっと準備してから臨みたかった」と認めている点だ。

彼は結婚を機に宮城県から兵庫県へ移住したばかりで、生活が落ち着いてから検討期間を取りたいと考えていた。それでも即断したのは、一度店を閉めてしまうと元の状態に戻すのが極めて難しいからである。設備を売却し、パティシエが去り、常連客が離れた後の「元・菓子店」には、18年分の資産はもう残っていない。

期限があるのは売り手だけではない。買い手にとっても、その案件が存在している期間そのものが期限になる。彼はTRANBIでこの1件にしか申し込みをしておらず、「この金額帯でこれだけの条件が揃った案件には出会えないかもしれない」と感じたと語っている。掲載から1ヶ月足らずで複数の打診が入り、最初に面談した相手と比較検討なしで契約が決まった東京の焼き魚専門店と同じで、条件の良い小規模案件は市場に長く置かれない。

なお、この即断は無検証ではない。彼は事前に店舗を視察し、実際に商品を買って試食している。そこで見たのは「商品数がかなり多いこと」と「店の照明が少し暗いこと」。味と品質は確認できた上で、マーケティングと店舗演出に手を入れる余地があると判断した。

買い手が持ち込んだもの、そして未検証の部分

豊田氏は独立後、チラシや名刺のデザイン、写真撮影、動画編集を個人事業として手がけていた。菓子店の承継後もこの仕事を続けており、本人は「複数の収入の柱があることで何かあってもカバーできる」と述べている。菓子の製造技術は既存のパティシエと新店長が担い、彼自身は販促と業務設計を担当する分担だ。承継3か月時点で新しいPOSレジを導入しているのも、この役割分担の現れである。

一方で、この事例には検証できていない部分が多い。公開されているのは譲渡額と「3か月後に前年同期比で増収」という事実だけで、売上高も利益も客数も出ていない。したがって800万円が回収できたのかどうかは、この時点では判断できない。飲食店の承継では、決算書どおりの売上が初日から立った一方で設備確認の甘さが誤算になった焼き魚専門店の譲受側の記録のように、数字が出るのは半年から1年後であることが多い。

彼の目標として語られているのは、業務効率化(混ぜる工程の自動化、商品形状の統一、パッケージの改善)を進め、「従業員の労働時間を短くしても、より高い給料を払える仕組み」を作ることだ。コンサル時代に製造販売型の菓子店で長時間労働と離職の連鎖を見てきたことが動機にあり、「幸せを届けるお菓子なのに、なぜ作る人がどんどん病んでしまうんだろう」という問題意識を語っている。ECやデパート向け商品も検討中とされるが、いずれも承継3か月時点では構想段階である。

この事例から取り出せること

持ち帰れるのは価格の見方だ。売上や利益の倍率だけでなく、「同じものを自分でゼロから作ったらいくらか」を並べて評価する。設備・人・顧客が揃った状態を再取得するコストが分かっていれば、交渉するかどうかの判断は速くなる。仲介会社に規模を理由に断られた個人事業がプラットフォーム掲載で30件超の引合いを得た事例と合わせると、この規模帯の案件がどこに集まっているかも見える。

そのまま真似できないのは、買い手が食品製造業のコンサル経験を持ち、販促スキルという別の収入源を維持していたことだ。技術を持たない買い手が製造業の店を承継できたのは、既存のパティシエが残り、売り手が技術継承に半年〜1年関わる条件が付いたからである。この条件が付かなければ、800万円は「設備と看板だけの値段」になっていた可能性が高い。

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