事例 売却済み

家事代行15年の事業、希望8,000万円に対し4,500万円で成約——4社コンペを制したのは、最高入札額ではなかった

後継者不在の家事代行事業(15年以上・年商約6,000万円)が、希望額8,000万円に対し4,500万円でTRANBI成約。4社コンペで買い手の入札額は最高ではなかった。平均継続利用年数は4〜5年。

執筆: Small Start 編集部(公開情報の要約+独自分析)

家事代行15年の事業、希望8,000万円に対し4,500万円で成約——4社コンペを制したのは、最高入札額ではなかった

事業を売りに出すとき、売り手はまず希望額を書く。買い手はそこから交渉する。ではその差はどのくらい開くのか——という問いに、具体的な数字で答えている記録がある。

M&Aプラットフォームのトランビが2024年4月に公開した成約者インタビューによれば、東京・神奈川および関西圏で15年以上続いた家事代行事業は、売り手希望額8,000万円に対して4,500万円で成約した。差額は3,500万円、希望額に対しておよそ56%の水準である。売り手が売りに出した理由は後継者不在だった。

そしてこの案件には、値付けの話をさらに面白くする事実がついている。買い手は4社のコンペを勝ち抜いたが、その入札額は最高ではなかった。買い手側の代表であるS氏は、売り手から後日「御社を選んだ一番の理由は、あなたのお人柄です」と言われたと語り、「M&Aは価格勝負ではない」と振り返っている。

案件と取引の数字

項目数字・内容
事業家事代行(東京・神奈川および関西圏)。運営15年以上
年商約6,000万円
契約形態スポットの依頼は受けず、継続契約の顧客のみ
顧客の平均継続利用年数4〜5年(解約率は非常に低いとされる)
主要顧客富裕層、ダブルインカムの夫婦、子育て世代
集客インターネット、既存顧客からの紹介、自治体や業務提携先からの紹介
単価スタッフ1人対応で時間あたり3,000〜4,000円
引き継ぎ条件現場スタッフは全員引き継ぎ可能
売り手の希望額8,000万円
成約額4,500万円
競合4社のコンペ。買い手の入札額は最高ではなかった
値付けの基準修正EBITDAの3〜5倍程度を相場として設定
アドバイザーの助言「財務諸表等から判断しても、5,000万円以上を出さなければならないなら手を引いた方がいい」
資金調達取引銀行のうち2〜3行に依頼し、1行から4,000万円の融資
売却理由後継者不在

何がこの事業を「買える案件」にしていたか

買い手のS氏は、M&Aの対象を明確な条件で絞っている。「黒字である」「オペレーションがすでに確立している」「サービス業である」の3つだ。加えて「融資が出ること」を実務上の第4条件として挙げている。

なぜ製造業を外すのか。信頼するM&Aアドバイザーから止められたためで、その理由は「製造業は熟練の職人に頼る部分が多く、その人が抜けると替えがきかなくなるケースがある」というものだった。裏返せば、サービス業を選ぶ理由はマニュアル化と研修の枠組みさえ整えれば業務を標準化できるからである。

この基準に照らすと、今回の家事代行事業は要件をよく満たしている。平均継続利用年数4〜5年という数字は、単に解約率が低いという以上の意味を持つ。顧客が事業ではなくサービスの型に付いていることの傍証であり、経営者が交代しても売上が消えにくい。しかも現場スタッフは全員引き継ぎ可能で、時間単価3,000〜4,000円という価格体系も引き継がれる。買い手が「来月から自分で回せる状態」に、この案件は最初から近かった。

スポット依頼を受けず継続契約のみ、という設計も効いている。単発の依頼を断るのは短期的には売上機会の放棄だが、そのぶん収益が予測可能になり、譲渡時に「向こう1年の売上」を説明しやすい資産になる。小規模M&Aで買い手が最も恐れるのは引き継ぎ直後の売上蒸発だから、この予測可能性が値段の下支えになる。同じサービス業でも、条件をひとつに絞ったことで3年迷った譲渡が3か月で決まった訪問介護の事例が示すように、案件の分かりやすさは成約速度と価格の両方に効く。

4,500万円という数字はどこから出てきたか

値付けの過程が具体的に語られているのが、この記事の実務的な価値だ。

買い手側はデューデリジェンスに入る前から、修正EBITDAの3〜5倍程度を譲渡額の相場として設定していた。そのうえでM&Aアドバイザーから「財務諸表等から判断しても、5,000万円以上を出さなければならないなら手を引いた方がいい」というブレーキがかかっている。つまり4,500万円は交渉の落としどころではなく、あらかじめ引いていた上限線の内側に収まった数字である。

ここで注目すべきは、買い手が上限を先に決めていたことだ。希望額8,000万円という提示に対して、感覚で歩み寄るのではなく、倍率という物差しを持って臨んでいる。修正EBITDAの3〜5倍という水準自体は、日本の中小サービス業のM&Aで頻繁に使われる目安であり、この事例はその目安が実際に効いた記録として読める。

一方、売り手の希望額8,000万円がどう算出されたのかは公開されていない。年商約6,000万円という規模から見ると、希望額は年商を上回る水準だった。年商倍率と利益倍率のどちらで考えるかで、同じ事業の値段は倍近く変わる。後継者不在で売りに出す側にとって、この認識のずれが交渉の入口になる、という教訓が読み取れる。

価格ではなく信頼で決まった、という部分の読み方

「入札額はうちがトップではなかった」というS氏の証言は魅力的だが、これを「価格は関係ない」と一般化するのは危うい。

インタビューを読むと、S氏の側には価格以外の材料が相当量あった。産婦人科医としてクリニックを開業し、総事業費10億円以上の案件を回している。東京と神奈川で5棟の不動産を所有し、全国で200室以上を管理する。2018年に法人化して信用を積んでいる。焼肉店、人材派遣会社、マタニティアパレルと複数の買収経験がある。そしてトップ面談にはM&Aアドバイザーが同席し、S氏の実績と資金力を第三者として説明した。

つまり「人柄で選ばれた」の中身は、検証可能な実績の束である。売り手が「一緒に働いてきた大事な社員を引き継ぐ」相手として信頼したのは、感情ではなく、その束を見た結果と考えるほうが正確だろう。従業員への説明の場でも、売り手が「4社のコンペだったけれど、D社ならこの事業を大切にしてくれると思った」と自ら語っている。

裏返せば、実績の束を持たない買い手が同じ土俵で価格以外を武器にするのは難しい。個人が事業を買う場合、3事業を買い集めた個人の記録や200万円のサロンを承継した会社員の事例のように、まずは金額帯を下げて実績を作る順序のほうが現実的である。

難所は交渉ではなく融資だった

S氏が「難しかった」と挙げているのは、M&Aのプロセスではなく資金調達である。

銀行から見ると、家事代行事業の買収は無担保の融資になる。しかも懸念は明快で、S氏が代弁するところの「もし来月スタッフが全員辞めたらどうなるの?」である。買い手自身が現場に入らず、実働はスタッフに任せて経営指導だけを行う構えだったため、この疑問は避けようがない。加えて融資エリアの問題、前回のM&Aから期間が空いていなかったことも渋られる要因になった。

結果として、取引銀行のうち融資の可能性がありそうな2〜3行に依頼し、そのうち1行から4,000万円の融資を引き出している。ただしS氏は、不動産資産とクリニックの経営実績という後ろ盾がなければ融資は難しかったと明言している。譲渡額4,500万円に対して融資4,000万円という比率は、この後ろ盾があって初めて成立した数字だと読むべきだろう。

再現の条件と限界

この事例から持ち帰れるのは、値付けの物差しを買う側が先に持つこと、そして「引き継げる状態」を売る側が作っておくことの2点に尽きる。修正EBITDAの3〜5倍という基準を事前に決め、上限を超えたら降りると決めておけば、希望額に引きずられずに済む。売り手の側では、継続契約中心の設計・平均継続年数4〜5年・スタッフ全員引き継ぎ可という3つが、そのまま買い手の3条件(黒字・オペレーション確立・サービス業)への回答になっていた。

限界も明確にしておく。第一に、この記事は買い手へのインタビューであり、売り手の言い分は間接的にしか出てこない。希望額8,000万円の根拠、売り手が最終的に4,500万円で納得した理由、他3社の提示額はいずれも非公開である。第二に、利益額が公開されていないため、修正EBITDAの何倍で成約したのかを実際に計算することはできない。年商約6,000万円という数字だけが手がかりで、この事例から利益率や投資回収期間を導くことはできない。第三に、記事は成約から間もない時点のもので、買い手は「10倍の事業成長」を目標に、備品購入・情報管理体制の強化・採用強化・150万円規模のHPリニューアル・名古屋支店開設といった投資を進めている段階だと語っている。一時的な赤字も覚悟のうえだという。その投資が回収されたかどうかは、この記録の外にある。

家事代行という業種そのものについても、S氏は「基本的には需要過多で、常にスタッフが足りない」と述べている。買った後に待っているのは、顧客獲得ではなく人の確保だという構造は、承継の値付けを考えるうえで見落とせない部分である。

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